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〈父なるもの〉の喪失

演劇雑誌「テアトロ」2011年9月号/著者=太田耕人

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 下鴨車窓『人魚』(伊丹・アイホール、7月22日-24日)は、作・演出の田辺剛が一昨年の旧作を改訂し、震災を仄めかす寓話に生まれ変わらせた。
 現代日本から時も場所も遠く離れた漁村。滑走路のような長い舞台の下手に簡素なテーブルとイス。イスから延びた太い綱が、上手に横たわる人魚(川面千晶)に結ばれている。網にからまった人魚は、派手なブルーのドレスの肉感的な女だ。歌で魅きつけ漁師を喰う人魚を、男を誘惑する水商売の女に造形したのだ。
 捕まった人魚は、歌を聞こうとする長老らの命で、船大工(河合良平)とその妹(筒井加寿子)の家に預けられている。だが陸の風に喉を痛めた人魚は歌うどころか、とんでもないだみ声で人々を罵る。人魚をとどめると災いがおこる、という占い師(大熊ねこ)の予言は聞き入れられない。
 初演では漁師の父親だったのを兄妹に変更し、妹の恋人である男(高杉征司)を新たに登場させた。男は妹に内職を世話し、仕事が遅れると怒鳴りつける。泳げないため漁師になれないが、資本家よろしく、長老らから人魚の件を請負い、町のサーカスと契約を結ぶ。
 人魚を海で泳がせ餌を捕らせる場面がある。船大工が人魚を引きずって退場すると、綱がぴんと張り、結えてあったイスが動きはじめる。人魚を連れ帰った兄は、隣家の子どもが人魚に食われたという。兄妹が弔いに赴いた留守、妹の恋人は服を脱いで網の中に入り、人魚を犯したあげく食われる。
 終幕、絶望した妹が去り、兄は人魚に促され嵐の海へ漕ぎだす。占い師には風にまじって、人魚の歌がかすかに聞こえる。その刹那、照明が落ち、嵐の音が耳をつんざいて幕となる。
 長老や妹の恋人は、災厄を起こす人魚を村に置き、金儲けを企む。それは原発の誘致を想起させる。そもそも人魚が象徴する自然への畏敬を、村人はすっかり失っている。劇中で占い師が言う。「わたしたちの手の及ばないことに敬意を払う、そういうことではない」時代になったと。かくて村は、自然の猛威の前に滅びてしまう。東日本大震災を背景にした寓話として、この劇は書き換えられたといってよい。
 経済力のない兄は家長の立場を与えられず、長老とその意をうけた妹の恋人が、〈父〉として権力をふるう。だがその判断はあきらかに誤っている。共同体を正しく導く〈父なるもの〉は、ここでもやはり喪われている。