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家族というありよう

演劇雑誌「テアトロ」2013年7月号/著者=太田耕人

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 田辺剛・作/演出、下鴨車窓『建築家M』(京都・アトリエ劇研、5月9日-13日)の戯曲は昨年、京都・愛知の舞台芸術の交流をはかるAAFリージョナル・シアター・シリーズで、京都舞台芸術協会プロデュース公演のため、書き下ろされた。公募等で選ばれた柏木俊彦と筒井加寿子が70分の短縮版を別々に演出し、二つの作品を比べ見る趣向で上演された。今回は作者自身による完全版の演出である。
 現代日本から時代も場所も遠くはなれた、深い森に抱かれた辺境の村。
 村長の家に建築家(浦島史生)が逗留する。家の設計を依頼されたのだ。しかしいくら設計図を画き直しても、秘書(藤原大介)に突き返される。問題なのは、ジョンという犬の部屋。庭には出られても、家の外には出られない場所で、運動できる広さも要る。
 ところが肝心のジョンは少し前から行方不明。村長の家は代々、犬を平等に家族として扱ってきたと、村長の娘(飯坂美鶴妃)は言う。それなのに語る人によって、大きさも毛の色も違う。犬ハンター(河合良平)が雇われてジョンを探し、建築家も恋人になった村長の娘と一緒に捜索を始める。
 ジョンは封鎖性と平等性を併せもつ、懐かしき村落共同体の象徴なのだろう。劇後半、痩せ細ったジョンの死体を娘が庭先で見つけるが、他の者が駆けつけたときには消えている。村長の妻(日詰千栄)は「わたしたちが住む世界にジョンはもういないの」と認めながら、「ジョンがいなくても立派に立つ家」を望む。それは新しい共同体の隠喩としての〈家〉であろう。
 終幕、建築家は敵対する犬ハンターに抗議しようと森へ向かう。だがその途次、誰かの投げた石が頭に当たり、亡くなったーそう秘書は報告する。
 チェーホフを彷彿とさせる雰囲気が漂う。秘書と村長の妻が建築家の到着を待つ開幕に、ロバーヒンとワーリャがラネーフスカヤを待つ『桜の園』冒頭が重なる。建築家の死は『三人姉妹』のトゥーゼンバッハの死を思わす。昔ながらのありように固執する家族、古き良き時代の喪失、辺ぴな土地から連れ出してくれるはずの婚約者の死。日詰、河合が誇張した演技でおかしみを醸し、藤原が味のある演技で不条理な秘書のふるまいを描いて、劇の基調を作った。